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2006年 5月 2日 テーマ あぁ、名護市長選!…極私的回顧
     執筆 ヘリ基地いらない二見以北10区の会 浦島悦子
あぁ、名護市長選!…極私的回顧
悲願は実らなかった
 つらい、つらい選挙だった。

 1月22日に投開票された名護市長選挙は、1999年末にリーフを埋め立てる辺野古沖軍民共用空港計画を受け入れた基地容認の岸本建男市政(2期8年)を引き継ぐ島袋吉和氏の当選に終わった。97年に持ち上がった(普天間飛行場移設を名目とする)名護市東海岸への米軍基地建設問題に引き裂かれ、翻弄され続けてきたこの9年間の苦しみに、今度こそ終止符を打ちたいという私たち地域住民の悲願は実らなかった。

 基地反対側から立った2人の候補者の合計得票数は、島袋氏に少し足りなかったが、過去最低の投票率(74.98%)は、分裂選挙に嫌気がさして棄権した人(その多くが反対の意思を持つ人だと思われる)の多さを示しており、勝つと予想される方に流れた票も勘案すれば、統一候補であれば勝てただろうと、残念でならない。

 つらかったのはしかし、選挙に負けたからではない。…と言うと誤解されるかも知れない。負けた痛手はもちろん大きいが、敗北という結果にも増して、その結果を招いた原因と経過がいっそうつらかったという意味だ。

 昨年10月に日米両政府が勝手に「合意」した在日米軍再編と、それに伴う辺野古沿岸部への建設案(現地での阻止行動と、それを支える広汎な世論に阻まれてボーリング調査すらできなかった軍民共用空港案に代わるもの)に対する市民・県民の圧倒的な反対世論を無視できず、島袋氏も選挙中、そして選挙後も今のところ「沿岸案反対」を保っているが、政府が「修正案」を示せば話し合いに応じる(というより、示して欲しいと盛んにラブコールを送っている)姿勢だし、日本政府がカネと強権の両刀を使って強行してくるのは時間の問題だろう。選挙の敗北に落ち込んでいる暇もない私たちは、それぞれのやり方で運動を再出発させているけれど、選挙で生じた亀裂やしこりが運動内部に影を落としているのは否定できない。

 それに蓋をし、忘れるのを待つ、という道もあるし、それがラクかなとも思う。しかし、基地反対側が(世論では勝っているにもかかわらず)負け続けてきたこの間の名護市長選挙を振り返ってみると、ここで蓋をすれば、同じ過ちを再び、三たび、繰り返すような気がするのだ。そうならないためにも、今回の選挙のきちんとした総括(それは、これまでの基地反対運動の総括にもつながるものだ)を、誰かに責任をなすりつけるのではなく、運動や選挙に関わった一人ひとりの真摯で開かれた議論を通じてやる必要があると、私は選挙後、機会あるごとに訴えてきたのだが、未だ、まったくではないにせよ、充分に、そして全体的にはなされていない。
 
 個人としての私に全体的な総括などもちろんできはしないし、心が千々に乱れた今回の選挙について自分自身の整理さえできていないのだが、せめて、この選挙をめぐって私が体験したこと、感じたことを、他人様に迷惑をかけない(と思う)範囲で、ありのままに述べてみたい。私の考えたことや判断の当否は別にして、今後の運動のあり方や次回の市長選挙を考える際の何かの手がかりになればと思うからである。
名護市民投票から市長選へ
 本題に入る前に、選挙というものへ私の基本的な姿勢と、私が知る限りの過去の名護市長選挙について簡単に触れておきたい。

 私ははっきり言って選挙になじめない。満20歳になって選挙権を得たときは確かにうれしかったけれど、初めて投票に行って以降ずっと、代議制民主主義というものに違和感を抱き続けてきた。なぜなら、私は私であり、私を誰か(それがどんなにすばらしい、尊敬すべき人であったとしても)に託したり代弁してもらうことはできない、私もまた、誰か別の人を代弁することはできないと感じているからだ。言いたいことは自分で言い、やりたいことがあれば、志を同じくする人々と協働して努力する方が、ずっと実現可能性は高い。もちろん現実的には、市民運動でやれることは限られているし、直接民主主義が難しいほど規模の大きな共同体において代議制は次善の策だというのはわかる。権利としての選挙には必ず足を運んでもいるのだが、最近は特に、投票したいと思う候補者のいる選挙はほとんどなく(逆に、落としたい人は山ほどいるが)、消去法で最後に残った人に票を入れるしかない。一般的な選挙で私が選挙運動をしないのは、積極的に推したい人がいないからでもあるし、「誰に入れるかは人に言われるまでもなく自分で決めるものでしょ。私はこの人に入れるけど、あなたは自分で考えてね(私自身が人に強要されるのはイヤだから)」と思っているからでもある。

 かつて奄美大島に住んでいた頃、選挙は恐怖でしかなかった。普段は仲のよいシマ人たちが、選挙になると、支持候補者の違いで真っ二つに分かれていがみ合い、道で会っても顔を背け、あいさつさえしなくなる。刃物沙汰や離婚さえ引き起こす恐ろしい選挙に、中立でいようと思っても許されない。旗幟を鮮明にしないと、どちらの側からも疑いの目で見られ、村八分にされてしまうからだ。もっとも、選挙という「祭り」が終わって2〜3ヶ月もすれば、おおかたは、また元通りになるのが救いだったけれど。

 そんなこんなで私の大嫌いな選挙(知り合いに「選挙ほどおもしろいものはない」と言う選挙大好き人間もいるが、私には信じられないのだ)に、否応なく関わらざるを得なくなったのは、97年の名護市民投票以降だ。

 私はそのときまだ名護市民ではなく、名護に移設されるという普天間基地の近くで勤務する者の立場だったが、住民投票は誰かに何かを託すのではなく、基地建設という一つの課題の是非について市民一人ひとりの意思を示すものだから、何のためらいもなく積極的に関われた。しかし、名護市民が、政府の硬軟取り混ぜたすさまじいほどの介入や圧力をもはねのけて市民投票で示した基地反対の意思を、政府の圧力に屈した比嘉鉄也市長(当時)が踏みにじり、基地受け容れ表明と同時に辞任したため、出直し市長選挙が行われることになった。98年のこの名護市長選挙は、当然にも市民投票の延長として、名護市民だけでなく、在沖米軍基地の縮小・撤去を願う県民の大きな関心を集め、多くの人々が関わった。私もその一人だった。

 この選挙で、比嘉前市長の後継者である岸本建男氏が反対派候補の玉城義和氏を僅差で破って当選した。その敗因について私は当時、いくつかのメディアに書いたので繰り返さないが、外因はともかくとして、内因(運動内部の問題)に蓋をしてきたことが、今日まで尾を引いているように思う。

 前述したように、当時、名護市民でなかった私が、名護の運動内部のことをあれこれ言うのはおこがましい限りだが、それを承知で敢えて言えば、名護市民投票へ向けた運動の過程で育ってきた市民・住民運動と、これまで反戦・反基地運動をリードしてきた革新政党・労組の運動が、市民投票のときには協働できたものの、選挙になるとうまくかみ合わなかったことを、外から関わる中でも感じたのだ。もっとぶっちゃけて言えば、政党・労組に「自分たちは選挙のプロだから、自分たちがリードし、経験の浅い市民運動はそれに従うべきだ」という意識があり、市民運動側が当然にも持つ不満や不信感にきちんと応えなかったため、せっかく育ちつつあった市民運動を選挙に生かし切れなかっただけでなく、市民運動の発展をも阻害してしまったのではないか。
基地反対候補の惨敗…02年市長選
 そのことの反省がなされないまま次の名護市長選(02年)を迎える。98年の市長選直後に縁あって名護市東海岸の住民となり、基地建設に反対する地域住民団体「ヘリ基地いらない二見以北10区の会」の一員として活動していた私は、生まれて初めて選挙運動のまっただ中に飛び込むことになった。相変わらず選挙は嫌いだが、自分の住む地域に襲いかかろうとしている基地問題が、誰が市長になるかによって左右されるとなれば、イヤでも関わらざるを得なかった。

 97年、市民投票を実現するために結成された名護市民投票推進協議会が発展・改称したヘリ基地反対協議会は、名護市への新基地建設に反対する市内の革新政党、労組、住民・市民団体によって構成される連絡組織で、私たち10区の会もその一員だ。02年の市長選を前に、反対協加盟団体を網羅する候補者選定委員会が作られ、各団体から推薦する人をあげることになった。10区の会が当初、推薦したのは、今回(06年)の市長選挙に立候補した名護市議の大城敬人さんだった。大城さんは基地反対運動を積極的に進めるだけでなく、社会的弱者と言われる人々の立場に立って生活相談などにかけずり回っている行動派の政治家だ。

 しかしながら、選考委員会で大城さんの名前を出したときの激しい反発に私はショックを受けた。反対協には共産党や、その関連のいくつかの市民団体などが加盟しているが、その人たちから矢のような非難が浴びせられたのだ。大城さんがかつて共産党員で、党を除名された経歴を持っていることは聞いていたが、そのいきさつは知らなかった。その後、共産党と大城さんの双方の言い分を聞いたが、それぞれが当然にも自らの正当性を主張し、部外者には判断できない。大城さんは共産党除名直後の市議選で、心配されたにもかかわらずトップ当選を果たしていることから、厚い支持層を持っていることがわかる。ただ、共産党にとって「不倶戴天の敵」にも等しいらしい大城さんを、共産党も入っている選考委員会で市長候補に選ぶことは不可能だと感じたので、私たちは検討し直すことにした。

 10区の会がその次に推薦したのは、大城さんと2人で「自治の風」という会派を組んでいる名護市議の宮城康博さんだった。宮城さんは市民投票推進協およびヘリ基地反対協の初代代表で、当時、政党・労組に属さない市民運動の若手リーダーとして注目された。実は、98年の市長選に際して、市民投票運動に関わった市民たちは、反対協の代表であり、若さと新鮮な感覚で新しい時代を切り開く可能性を秘めた宮城さんが、当然、市長候補になるものと思っていたところ、政治的経験がないという理由で政党や労組の支持が得られなかった(彼は、市長選と同時に行われた市議の補選に出て当選した)といういきさつがある。それが、政党・労組に対する市民運動側の不信感にもつながった。

 02年の選挙では最終的に宮城さんが基地反対の統一市長候補となったが、はじめは支持団体は多くなかった。幾人かの名前があがったが、内外の状況の厳しさから勝利の見込みが薄いという判断もあったのか、打診して断られる状況が続いた。年明け2月の初めに予定されていた選挙に、年末ぎりぎりでやっと、私たち住民運動・市民運動側が推した宮城さんの擁立が決まったのだ。その間ずっと立候補の意思を示していた大城さんに対して、多くの人々が「今回は立候補を断念し、宮城候補に協力して欲しい」とお願いに行った。私もその一人であり、あのときの申し訳なさは今も忘れることができない。大城さんはみんなの願いに応えて立候補を断念し、宮城さんを候補者とする選挙運動に協力してくれた(この市長選後、「自治の風」は解散した)。

 推薦した責任もあり、市民・住民運動の感性を選挙に活かしたいという思いもあって、私は年明けから投票まで、仕事も家庭も放り出して無給の選挙事務所専従者の一人となった。対立候補である現職(岸本氏)の背後に政府やゼネコンなどの巨大な権力があり、カネが動き、さまざまな圧力や誹謗中傷が飛び交うことは予想していたが、選挙運動の中で政党・労組の旧来のやり方と市民運動の感覚がずれて衝突したり、なにしろ初体験の選挙の「臨戦態勢」の中で出てくる露骨な人間性やどぎつい関係に深く傷つきもした。

 電話や街頭宣伝に対する市民の反応はとてもよく、「この選挙、勝てるかも」と錯覚しそうなほどだったが、結果は1万票近くも差のついた惨敗だった。街頭での訴えに対する多くの市民の熱列な、あるいは温かいエールは、基地反対への共感だったのは間違いないが、それが必ずしも投票の基準にはならなかったのだ。名護市民の変わらない基地反対の意思を確認できたと同時に、選挙はそれだけではたたかえないことも実感した。

 とにかく基地を造らせたくない一心だけで選挙に関わった私の感想は、「やはり選挙は怖いし、嫌いだ。基地問題さえなければ金輪際関わりたくない」だった。
ボーリング阻止と日米の沿岸案「合意」
 前置きがずいぶん長くなってしまったが、今回の選挙に話を移そう。

 99年末に稲嶺沖縄県知事が辺野古沖を選定し、岸本名護市長がそれを受け容れた「軍民共用空港」計画が、建設のためのボーリング調査という具体的な動きを見せた04年4月から辺野古ではボーリング阻止のためのテント座り込みが始まった。名護のヘリ基地反対協と全県的な市民運動の連絡組織である平和市民連絡会がテント村の運営責任を担った。9月からは海上での阻止行動も始まり、業者の暴力や生命の危険、厳しい暑さや寒さ、悪天候などにさらされながら連日連夜の非暴力抵抗が続けられた。一日も早く、白紙撤回という形でたたかいが終わって欲しいと誰もが願っていた。前回選挙の教訓から、次の市長選挙の準備は早く始め、市民に浸透させておく必要があると思いつつ、目前のたたかいで手一杯で、選挙のことまで考えるゆとりは、少なくとも現場のたたかいを担っている人々にはなかった。

 市長選まで1年を切ったころ、大城敬人さんが立候補の意思表明をしたことが地元紙に載った。7期27年間、名護市議を務める大城さんは、テント座り込みに当初から参加し、テント村発行の「おはよう新聞」作成のため毎朝3時に起きて尽力し、海上行動にも出て、ともにたたかい続けている。そんな彼の立候補を、私も含め現場の行動に参加しているほとんどの人が違和感なく受け止めたと思う。共産党がまた反対しないかな、という不安が私をかすめたが、現場のたたかいにおいては、大城さんと共産党の人たちは仲良く(と見えた)協力し合っていたし(辺野古テント村のすばらしいところは、辺野古に基地を造らせたくないと思う人であれば、それ以外でどんなに主義主張が違ってもいっしょにやれることだ。余所ではケンカばかりしている革マル派と中核派のメンバーが、隣り合って座り込みしているのは、なかなか素敵な眺めだった)、苦楽を共にしたたたかいが矛盾を乗り越えさせ、今回はうまく話がつくかも知れない、大城さんでまとまればいいな、と思った。

 その後しばらくして、大城さんが「根回しもせず、いきなり新聞に出した」ことへの不満の声を耳にしたが、私はそのとき、根回しすれば共産党は反対せざるをえないだろうから、先に表明することによって市民に浸透させ、共産党も認めざるをえなくするための大城さんの作戦だろう、と理解した。

 しかしその後、テント村では箝口令でも敷かれたように、選挙の話は影を潜めた。名護市長選挙は、私たちが連日、直接わたりあい悪戦苦闘している基地問題を左右する一大関心事であり、日程的にも刻々と近付いてくるにもかかわらず、選挙の話はタブーであるかのような異様な雰囲気が漂っていた。テント村をはじめ現場には共産党関係の人々も多く関わっているので、やはり大城さんと共産党との確執が影響しているのだろうと感じた。

 9月2日、大型台風接近を理由に海上のボーリング用やぐらがすべて撤去され、実質的な「軍民共用空港」計画断念かと喜んだのも束の間、10月末には在日米軍再編計画の内容がほぼ明らかになり、日米両政府が従来の辺野古沖案に代わる新たな計画として、大浦湾を大規模に埋め立てる辺野古沿岸案で「合意」したことが発表された。海を破壊し、爆音が集落を直撃し、大浦湾の軍港化も想定される沿岸案は、従来案よりさらに自然環境と地域住民の暮らしに負担を強いるのは一目瞭然だった。とりわけ、従来案では「地元」ではなく「周辺地域」としてしか扱われず(従来案であっても、騒音被害は「地元」以上になると予想されたにもかかわらず)、「地元説明会」からも排除されていた私たちの地域=二見以北10区は、いよいよ文字通りの「(予定地に最も近い)地元」になってしまったのだ。
不足していた自由な議論の場
 辺野古のテント座り込みは9月2日以降も続いていた(今年明けに場所を漁港隣の海岸から命を守る会事務所前に移して、現在も続行中)。那覇防衛施設局が、台風通過後にやぐらを再設置すると発表していたからだ。再度の海上攻防に備えたカヌー練習や座り込みの中で、再設置への不安やさまざまに流れてくる日米協議の情報に気をもみながら、テント村に集う人々は、間近に迫った名護市長選の行方を密かに案じていた。現場のたたかいを担い、ようやくボーリングを断念させた人々にとって、今回の名護市長選は、この苦しいたたかいに決着をつけられるかどうかがかかっており、今後の沖縄の基地問題にも大きな影響を与えると考えられたから、名護市民はもちろん、そうでなくても無関心ではいられなかったのだ。

 名護の革新政党と労組から成る6者協議会(社民党・社大党・共産党・名護市職労・自治労北部総支部・北部地区労)が候補者選定に動いているという記事が地元紙に掲載され、幾人かの名前があがったり消えたりしていたが、ずっと以前から立候補の意思表明をしている大城さんの名前はそこにはなかった。大城さんは変わらず現場に姿を見せていたものの、彼の口からも選挙の話は出なかった。私は、みんなが気にしているのだから、テント村でもっとフランクに選挙の話をしたほうがいいと思っていたが、反対協は運動に政治を持ち込むべきでないという方針で、大城さんもそれを尊重していたのだと思う。

 そうこうしているうちに、9月下旬頃だったか「6者協が保守系名護市議の我喜屋宗弘さん擁立へ」の新聞記事が出た。テント村は騒然となった。辺野古の基地問題を左右する名護市長選について、現場のたたかいを担っている人々には何の情報ももたらされず、意見を聞かれたこともなく、現場にはほとんど顔を見せたことのない政党・労組の幹部が候補者を選定することへの不信感(沖縄県と県民を蚊帳の外に置き、勝手に米国と「合意」した日本政府のやり方と同じだという批判を、少なからぬ人が口にした)、現場を共に担い、苦労を分かち合ってきた仲間の一人である大城さんが意思表明しているにもかかわらず無視されているという怒りが、かつて基地容認派であり、テント村の人々にはほとんど面識のない「我喜屋さん擁立」で噴出したのだ。

 不安が現実になったと思ったが、みんなの怒りは当然でもあった。現場でこそ自由で開かれた論議が行われてしかるべきなのに、なぜできないのか? 「是非やりましょう」と、私はことあるごとに呼びかけた。大城さんと共産党との関係が複雑であるにせよ、基地を造らせないという共通の目的のために乗り越えられないほどのものなのか? 私がいちばん恐れたのは、互いの不信感によって、これまで培ってきた共同の力が分裂し、バラバラになり、運動が先細りになってしまわないかということだった。反対派の市長が誕生しても、日米政府が強権を持って襲いかかってくることに変わりはないだろう。行政だけでこれを止めることは難しく、やはり運動を続けていかなくてはならないのだから。

 10月初め、反対協の幹事会(加盟団体の代表の定例会)で名護民商の代表から、議題にはなかった名護市長選について話し合いたいという提案が行われた。反対協は今回の市長選について、自分たちは運動体であり、政治(選挙)には直接関わらないという態度を貫いていた。しかし、前回の市長選には反対協としてではないにせよ、同じメンバーが選考委員会を作って関わったのだし、運動に直接関係のある選挙について議論もしないというのはおかしいのではないかという彼の提案に私も賛成した。不信感を払拭し、みんなの気持ちを一つにするためにも開かれた議論の場を設けて欲しいと、私は提起した。

 その場で、反対協の事務局長であり、6者協の一員である北部地区労の事務局長でもあるNさんが、6者協での選考の経過について簡単に説明したが、やはり6者協から正式に説明を受けて論議しようということになり、日程調整を事務局にお願いして、その日は散会した。
「ゼネコン支配から脱したい」
 6者協が推す「我喜屋さんってどんな人?」と、テント村の内外で聞かれることがよくあった。名護市議を6期務めているが、かつて岸本市長と共に「辺野古沖軍民共用空港」を受け容れた保守系市議団の一人である彼とは、反対派はこれまでほとんどおつき合いがなかったから、知らないのは当たり前だ。私はライターという仕事柄、取材を通じてある程度知っていることを、聞かれるたびに話した。

 我喜屋さんは岸本市政第1期、名護市議会の保守系2会派のうち、市長べったりの「新風21」ではなく、批判すべきはきちんと批判する「和(なごみ)の会」の代表であったこと。「和の会」は、日本政府による地元の頭越しの一方的な基地押しつけに対して、野党とともに議会で抵抗しようとしたため、岸本市長の背後で院政を敷いていると言われた(島袋新市長についても同様らしい)比嘉鉄也前市長や、それとつながるゼネコン、日本政府中枢からものすごい圧力を受け、とうとう会派を潰されてしまったこと。「保守の中では良心派だし、私の感じでは人間的にも誠実そうな人だよ」と言うと、我喜屋支持と思われて、にらまれることもあったけれど。

 その後、名護市民投票のときには基地建設賛成に票を入れたけれど、今回は我喜屋さんを支持し、「彼にはきっちりと反対を言ってほしい」という人と話す機会があった。彼は、基地の見返りの北部振興策が地元を潤さず、中小・零細企業がどんどん潰れていったこと、基地建設をはじめとする巨大公共事業は、ゼネコンに利益が吸い取られるだけで地元には何のメリットもないとわかってきたこと、賛成・反対で地域が引き裂かれたしこりは今も残っていることを話し、「ゼネコン支配、比嘉鉄也支配から脱したいと思っている業者は多い。そうしないと名護の未来はない。その人たちが今回は我喜屋さんを推している」と語った。「いっしょに名護の未来を作って欲しい」と我喜屋さん支持を訴えられ、私の心は揺れた。彼の言っていることはよくわかったし、彼や彼と志を同じくする人たちは手を取り合える、取り合うべき人たちだと感じたからだ。

 日本政府が押しつけようとしている沿岸案には県民・市民の大多数が反対しており、保守層や賛成派だった人たちの中にも流動化が起きている。過去2回、負けてきた市長選挙に今度こそ勝てる客観的条件があると思われた。しかし、そのためには基地に反対する側がまとまらなければならない。はっきりと意思表示している大城さんをないがしろにせず、ボタンの掛け違えがあったのなら、いったん外して、再度掛け直すべきだ。

 ヘリ基地いらない二見以北10区の会の会合を久しぶりに開くことにした。当初、各区の区長を先頭に地域ぐるみで活動していた10区の会は、市民投票の結果を踏みにじって市長が基地を受け入れ、自分たちの手の届かないところで基地建設に向けた動きが進んでいく中で、家族や隣近所がいがみ合うことへの疲れ、どんなに声をあげても無視される絶望感・無力感、政府の札束攻勢などから会への参加者が減り、前回の市長選敗北のあと、ここ3年ほど休会を余儀なくされていた。日米合意=沿岸案発表以降、「いよいよ地元になってしまったし、もう眠っている場合じゃないよね」と、休会前の世話人どうしで語り合ってはいたのだが、再開するまでには至っていなかった。しかし、今回の選挙にはどうしても勝ちたい、勝って沿岸案を葬りたいし、何より9年間も苦しんできた基地問題をもう終わりにしたい、というのが私たちの切なる思いだった。そのためにはどうしても、基地反対の候補者を統一してもらわなければならない。もし分裂して2人が立てば、負けるのはハナからわかっている。そんなことになれば、この先またずっと苦しい思いをすることになる。もうたたかいたくないよ…。

 「ずっと基地反対でがんばってきた大城さんで一本化したい」「大城さんでは票を取れそうにないから、勝てる見込みのある我喜屋さんで一本化すべきだ」「どっちでもいいから、とにかく一本化して欲しい」……

 話し合ってみると、それぞれの意見は違ったが、「一本化」したい、しなければならないという点では一致していた。候補者一本化を求める行動を起こそう。テント村に集う人々もみんな一本化を望んでいる。その総意としてテント村で記者会見して発信すれば、基地に反対する多くの名護市民の共感を得て大きな世論になるのではないか…。

 しかしながら、テント村での記者会見は叶わなかった。運動の拠点であるテント村に選挙を持ち込むことに、反対協から「待った」がかかったのだ。特定の人を支持しようというのではない、一本化は誰もが望んでいるのになぜやってはいけないのか、納得できない思いが残ったが、テント村に不協和音や混乱を持ち込むのは不本意なので、あきらめ、沿岸案の地元である10区の声として訴えることにした。
「候補者一本化」を求めて動き出す
 10月半ば、6者協による反対協加盟団体への説明会が行われた。その日、私は所用で参加できなかったので、出席する10区の会メンバー2人に、6者協宛ての次のような文書を託した。
6者協のみなさま
基地反対市長候補の一本化を求める訴え
 名護市長選まで3ヶ月余に迫りました。普天間返還・名護市への移設問題の行方を左右する山場と言われる今回の選挙に、新基地反対の立場から複数の立候補予定者の名前があがっていることを、私たちはたいへん憂慮しています。

 私たち名護市民は、8年前の市民投票で、名護市への新たな基地建設にはっきりと「ノー」の意思表示をしました。その後、比嘉・前市長の市民への裏切り、地域住民・市民・県民の声を踏みにじる政府の基地推進政策によって地域や人心をズタズタにされながらも、あきらめず地道な運動を続け、昨年4月からの辺野古座り込み、9月からの海上行動と、それを包み込んで全県・全国・世界に広がる世論が、現行計画の断念を日米両政府に迫るまでになりました。

 この9年間、自分の命と引き替えてでも海と子や孫たちの未来を守りたいと、一貫して反対運動の先頭に立ち続けてきた辺野古のおじぃ、おばぁたちをはじめ翻弄され続けてきた地域住民・市民は、もうこれ以上こんな状態に耐えられない、白紙撤回という決着をつけてほしいというぎりぎりの願いを、今回の選挙に託しています。

 出馬の意向を示していると言われる現市長は、名護市への基地建設を受け入れる発言をして市民の怒りを買っていますが、何がなんでも沖縄に、名護に基地を押しつけたい日本政府は総力を挙げて現市長を支える姿勢を示しており、今回の名護市長選挙が、政府と、平和な暮らしを求める名護市民との真っ向からのたたかいになることは確実です。

 そんな中で、基地に反対する候補が複数になれば、力が分散され、また、これまで一緒に運動をやってきた住民・市民の中に亀裂が生じることは避けられません。基地反対の気持ちを持つ有権者の選挙離れ、投票率の低下も懸念されます。複数候補では、私たちは選挙にかかわりたくてもかかわれません。

 名護市の未来、子どもたちの未来の明暗を分ける、どうしても負けられない選挙であればこそ、何としても候補者を一本化して欲しい。それが私たちの悲願です。どうか、いま一度立ち止まり、統一候補を立てる道を探ってくださるよう、さらなる話し合いと調整を切に、切に、お願い申し上げます。
ヘリ基地いらない二見以北10区の会
 翌日、説明会の様子を、出席したTさんに聞いたところ、「とにかく、(我喜屋さんに)決めたから従え、みたいな感じだった」と怒っている。意見や批判を述べた人は、「説明してほしいと言うからやったのに、文句を言われる筋合いはない」と、逆に怒られたという。これでは、せっかく渡した「訴え」もまともに受け止めてくれそうもないなと、がっかりした。「前回選挙では反対協加盟団体を網羅した選考委員会を作ったのに、今回はなぜ市民団体を外したのか」という質問に対しては、「市民団体を入れて間口を広げすぎたため、議論がなかなかまとまらずに候補者決定が遅れ、運動期間が短くなったので負けた、というのが前回選挙の総括だ」と答えたと聞いて、ますますがっくり。そんな「総括」もできるんだと、ヘンな感心をしつつ、あー絶望的…。

 名護市議会議員30人中、我喜屋さんを推している12人の市議団(本人を含む。大城さんは本人だけで支持議員はいない)に対しても、同様の訴えをしようと、知り合いの議員を通じて打診してみたが、「大城さんと我喜屋さんは立場が違うので一本化などできない」と、にべもなく言われて、くじけてしまった。あとで考えれば、それが必ずしも市議団全体の考え方ではなかったかもしれないのだが。
岸本市長不出馬と後継者決定
 10月17日、岸本市長が健康上の理由で次の選挙に出馬しないことを決めたというニュースが地元紙に載り、まもなく、その後継者として市議の島袋吉和氏の名前があがった。岸本氏には現職の強みがあるが、島袋氏は同じ市議だし、特別な功績があるわけでもないから、選挙は反対派に有利になったかに見えた。しかし、あとで思うことだが、それは比嘉鉄也〜岸本建男〜島袋吉和を支える、私たち一般市民には見えない利権の構造を甘く見ていた。基地建設や、その見返りの「振興策」に群がる勢力にとって、「顔」は誰でもよかったのだ。むしろ、自分の意見を持たず、言いなりに動いてくれる島袋氏は適任だったのかも知れない。島袋陣営は候補者を極力表に出さず、討論会や演説はできるだけ避け、支持議員たちの根回しで小さな懇談会を市内くまなく持つというやり方で、浸透を図った。懇談会には必ず比嘉氏や岸本氏が加わり、候補者本人ではなく、彼らが熱弁を振るったという。島袋氏は出馬に出遅れたにもかかわらず、運動では先行していると言われた。

 一方、基地反対候補の一本化は難航していた。我喜屋さんを推した6者協に、はっきり言って「組織の傲り」があったのは否定できない。というより、組織が魅力や求心力を失った現状に対する自己認識が欠如していた(いる)と言うべきか。大城さんが立候補表明をしたのは単なるパフォーマンスに過ぎず、組織の支持も同僚議員の支持もない彼はそのうち上げた手を降ろすだろう、という見方をしている人々がいたのは事実だ。しかし、前回と異なり、大城さんの意思は強固だった。それをようやく認識した反基地運動のリーダーや沖縄選出の国会議員など、さまざまな人たちが「一本化」に向けて動きだしたが、その多くが「大城さんに降りて欲しいとお願いする」形であったため、大城陣営の納得は得られなかった。

 11月23日、辺野古で「新基地建設反対・国の横暴を許さない市民集会」が行われた。当初、辺野古浜での開催予定だったが、雨天のため急きょ、場所を座り込みテントに移して行われた集会に、大城さんも我喜屋さんも参加したが、運動に政治(選挙)を持ち込まないという原則を2人とも守って静かに座っていた。ところが、共産党の代表が挨拶の中で我喜屋さん支持を呼びかける発言をしたため、ルール違反だと参加者から激しいブーイングを浴びた。辺野古のおじぃ、おばぁをはじめテント座り込みや海上行動に参加した人々は(私も含め)みな、大城さんに親しみと敬意を抱いていたから、なおさらだった。

 私は、なんとか一本化して欲しいと強く願いつつ、しかしそれが今は「大城降ろし」にしかなっていないことに苛立っていた。ボタンを掛け違えたのだから、それをいったんはずして掛け直すべきなのに、掛け違えのまま強引に、はみ出した裾を切ろうとするようなやり方がうまくいくはずがないと思った。なぜ、初心に戻って平場で話し合うことができないのだろう。組織の面子なのか。そんなものにこだわっている場合ではないのに…。

 大城さんは出身集落である幸喜での事務所開きに続いて、名護市街地の本部事務所を開いた。私は心情的には大城さんを支持しつつ、旗幟を鮮明にするのにはためらいがあって事務所開きには参加しなかった。すでに座り込みテントの中にはぎくしゃくした雰囲気が流れ始めていた。テントには選挙を持ち込まないという建て前はあっても、人の心はどうしても表に出てしまう。組織に属する人々も個人参加者も、いっしょに運動してきたのに、選挙で誰を支持するかをめぐって溝ができるのはつらいというだけでなく、今後の運動を考えると不安でもあった。私はテントの中でも、その不安と、そうならないようにしようと、繰り返し訴えた。それは私だけではない共通の気持ちだったと思う。
6者協に市民の声を届ける
 座り込みや海上行動を共にやってきた仲間たちが大城さんの選挙事務所に出入りし、選挙を手伝い始めていた。何度か誘われ、私自身も大城さんを激励したい思いがあったので、一度、事務所を訪ねてみることにした。11月末頃だったと思う。

 まだ人は多くなかったが、辺野古の阻止行動をいっしょにやってきた顔見知りの人たちや、大城さんが寝る間も惜しんで行っている生活相談でお世話になったという人たちが集う事務所の雰囲気はアットホームで、これまでの選挙で違和感を覚えた組織中心の事務所の雰囲気とはまったくちがっていた。こういう市民手作りの選挙運動が大きく広がっていけば名護市は変わるかも知れないと思った。

 その翌日、6者協の一員である社大党の人々が大城さんの事務所に「一本化」の話をしに来るので参加しないかと誘われた。それ以前に、共産党の人たちが来るというときも誘われたのだが、共産党と大城さんの確執は聞いても仕方がないと思ったので参加しなかった。しかし、社大党なら参加してみよう。沖縄の土着政党である社大党は、昔のような勢いはないけれど、組織嫌いの私が、政党の中ではいちばん柔軟で、話が通じると感じている党だ。6者協に対して、これまで訴えたくても機会がなかったことを訴えよう。社大党ならわかってくれるかもしれない…。

 翌日の話し合いは、大城さん、および支持者たち10人ほどが事務所の机を挟んで社大党の参加者たちと相対する形で行われた。私は選挙における明確な支持者として出席することにはためらいがあったが、もちろん社大党ではないし、発言もしたかったので、大城さんの後ろの椅子に座った。

 社大党側から予想通り「大城さんには大局的に判断して、(反対派が)選挙に勝利するために降りて欲しい」というお願いがあり、それに大城さんがこれまでの経過を詳しく述べて「もう(降りるには)遅すぎる」と反論した。私は、大城さんが降りた前回選挙以降の経過を初めて聞きながら、6者協が候補者人選を一任したという県議会議員の玉城義和氏に不当な扱いを受けたと感じていること、玉城氏や6者協のやり方への不信感はもっともだと思った。大城さんを支持する同期生会の会長も「幸喜の事務所を開いたあとも話し合いの門戸を開いていたのに、誰も来なかった。本部事務所を開いてからでは後戻りできない」と言った。

 私は手をあげて「一市民として言わせて欲しい」と発言を求めた。市民の率直な疑問は「なんでこう(分裂状態)なったの?」であり、6者協にはその疑問に答える義務がある。市民の中には、このままでは選挙に関わりたくない、関われない、投票もしたくないという不信感が蔓延している。それを払拭するためにも、かなり押し迫ってはいるが、今からでもいいから、開かれた率直な議論の場を設けて欲しい。社大党から、それを6者協の場で提案して欲しい。このままでは選挙だけでなく、今後の運動にも禍根を残しかねない。今は政党・労組に属さない人のほうが多いのだから、ぜひ市民の声を聞いて欲しい。……

 そんなことを私は切々と訴えたように記憶している。その後、大城さんや支持者たちから、「基地に賛成していたのに、にわかに反対を言いだした」我喜屋さんに対する不信感や、「一本化を言うなら、基地反対をずっと貫いている大城で一本化すべきだ」「大城こそが勝てる候補者だ」という強い意見が出たが、社大党側はあくまでも「降りて欲しい」と主張するので、結局は平行線のまま終わった。

 その数日後に行われた大城さんの辺野古事務所開きには私も参加した。9年前から一貫して、基地を造らせないためにがんばってきたおじぃ、おばぁたちをはじめ、懐かしい顔ぶれも含めて辺野古の人たちが集まった。彼らの大城さんへの深い信頼、選挙にかける期待と希望、また、社会の底辺や弱い立場に置かれた人々に対する温かい思いのこもった大城さんの話に、私は感動した。
公開討論会の呼びかけと断念
 「一本化」の見通しがつかない中で、私たち10区の会では何かできることがないかと暗中模索していた。「お互いの不信感は相当強いみたいだし、一本化はもう無理じゃないか。このまま分裂選挙になるのかなぁ」と、ため息が漏れる。「でも、最後まで努力しよう」

 どっちみち、もし2人が立つことになったら、どちらを支持するか各人が選ばなくてはならない。その判断のためにも情報が必要だ。私たちは会として、立候補予定者の公開討論会を行う計画を立てた。3陣営すべてに呼びかけるが、島袋陣営は断るかもしれない。島袋氏が公の場でしゃべる姿は見たことがなかった。マスコミ主催の公開討論会も断ったと聞くし、彼をそういう場に出さないようにしているようだ。もし、大城さんと我喜屋さんの2人になったら、それぞれの主張をじっくり聞いて、判断できるし、可能なら、そこで直接、一本化のお願いをして、当人同士で話し合ってもらうことはできないだろうか…。

 10区の会主催の公開討論会への出席お願いの文書を持って、私たちは3つの選挙事務所を回った。島袋事務所では即座に「日程がふさがっているので無理だ」と言われたが、「そちらを最優先して日程調整するので、検討して欲しい」と頼んだ。我喜屋事務所は担当者がいなかったので預けた。大城事務所の責任者は「是非やりましょう。しかし、他の候補者が受けるかな?」と言った。

 その夜、我喜屋事務所の担当者から私に電話があった。「あなたは先日、社大党のみなさんが大城事務所に行ったとき、そこにいたのか?」と聞くので「いましたよ」と答えた。すると、「特定候補者の支持者である」私が10区の会の連絡先になっている(しばらく休会していたので事務所がなく、とりあえず連絡のつきやすい私の電話番号を文書に載せた)ので、10区の会の中立性が疑わしいというのだ。唖然とした。あのとき大城事務所にいたのは社大党に市民の声を届けたい一心からだったが、仮に私が大城さん支持者であったとしても、それは個人の自由だし、とがめられる筋合いはない。まして10区の会は地域住民団体であり、いろんな考えの人がいることは、以前からつきあいのある彼もわかっているはずなのに、なぜこんなことを言うのかわからなかった。彼によれば、我喜屋さんを誹謗中傷する「読むに耐えない」文書が大城陣営から出されているという。「それはあなた方が書いているのか」と言われて、私はとうとうプッツンした。

 私は、なかなかカネにはならないとしても「ライター」を自称している人間だ。自分の書く文章には自負と責任を持っている。他人がどう思うかは別にして、文章を書くときは常に誠心誠意を込めているつもりだ。それなのに「読むに耐えない」ような文書を書いたと疑われた悔しさで、私はその夜、なかなか眠れなかった。自分の存在を否定され、卑しめられた気分だった。

 翌日、10区の会のHさんにこのことをこぼした。彼は大城さんとのつきあいも深く、尊敬し、頼りにもしているが、こと選挙に関しては、どうしても勝たなければならない、勝てる候補でなくてはならないと考え、我喜屋さんを推していた。大城さんに「降りて欲しい」とお願いに行ったこともある。「自分は○○さんに、(我喜屋を支持しているのは)カネを掴まされたのか、と言われた。海上でいっしょに苦労してきた仲間に、なんでこんなことを言われなくちゃいけないんだ」と、彼は嘆いた。「たとえ支持する人が違ったとしても、10区の会はみんな仲良くしようね」と私たちは慰め合った。たかが選挙で、なぜこんなにいがみ合うのか、理解できなかった。

 島袋事務所にはしつこく電話をかけたが、結局、出席を断られた。文書を持っていった数日後、我喜屋事務所からファクスが届いた。趣旨には賛同するので、次の条件で参加したい、とあり、その条件とは、@必ず3人が出席すること、A10区の会の中立性を証明すること、というのだ。私たちは言うべき言葉を持たなかった(誤解のないように断っておくと、これが我喜屋事務所全体の姿勢であったとは、私たちは思っていない)。承諾してくれた大城さんには申し訳なかったが、1人では討論会にならないので、公開討論会は断念せざるを得なかった。
泥沼を這いずる日々
 我喜屋陣営と大城陣営の溝は埋まらないまま、時間は容赦なく流れた。分裂選挙は避けられないと誰もが観念し始めた。最後まで一本化への望みは捨てないにしても、それができなければどちらかを選ぶしかない。そのときは、いっしょにやってきた大城さんしかないだろうと、私は思った。

 分裂状態に気は重いが、少しは選挙の手伝いもしなければ、と考えて大城事務所に出入りし始めていた私の足を遠ざけるようになったのは、次第に我喜屋陣営批判を強める事務所の雰囲気だった。我喜屋さん本人の基地問題に対する姿勢を批判するのはわかるとしても、彼の支持者を人格まで貶めるような表現で罵倒し、それで場が盛り上がるのに私はいたたまれない思いがした。6者協をはじめ組織のやり方に対する批判は私も人一倍持っているが、それはあくまでも仲間としての批判だ。これまでいっしょに運動をやってきた仲間を、最悪の敵であるかのように糾弾するのは、私には耐えられなかった。

 辺野古の座り込みテントの中はますます居心地が悪くなり、別の集会で会った地元紙の記者に「最近テントに行ってますか?」と聞かれ「時々ね」と答えたら、「最近、雰囲気悪くて行きたくないですよね」と言うので、苦笑してしまった。

 跋扈する疑心暗鬼をなんとか吹き払おうと、12月下旬、ようやくテント村で選挙について話し合いを持つことになった。12月23日に、名護市民投票8周年を期した大浦湾での海上デモが予定されており、選挙をめぐる不信感がそれに影響しないようにという配慮もあったと思う。話し合いではまず、ヘリ基地反対協の代表が、名護市の過去の選挙結果を資料にしながら「革新統一」しか勝利の道はないと提案したが、6者協構成組織を含む反対協に対する、大城さん支持者からの批判が相次いだ。うなずける批判もあったが、大城さんの正当性を強調するあまり、我喜屋さん支持者は犯罪者でもあるかのような言い方にはついていけなかった。その違和感が最高につのったのは、大城さん支持者が、99年末に岸本市長が軍民共用空港を受け容れたときの新聞記事のコピーを掲げて、「我喜屋は賛成派だ。これがその証拠だ」と、鬼の首でも取ったように言い、基地に反対する人が大城さんを支持しないのはおかしいと主張したときだった。

 我喜屋さんがかつて基地容認派であったことは名護市民なら誰でも知っているし、本人もそう言っている。わかりきった過去のことをなぜことさらに言い立てるのか、しらけた気分になった。私自身もその時点では、容認から反対へ変わったという我喜屋さんに対して半信半疑だったが、人は変わりうるものだ。それ自体を認めないのはおかしい。それに、誰を支持するかは各人が自分の責任で判断して決めることで、他人に強要することはできない。

 名護市以外の参加者から、冷静で客観的な意見が述べられ、最終的には「たとえ誰が誰を支持しようと、みんな仲間であり、これまで培ってきたテント村の団結をこわさないようにしよう。選挙で意見が分かれても、終わったらまたいっしょに、基地を造らせないという共通の目標に向かってやっていこう」と確認し合ったのだが、感情的に割り切れない思いを残した人も少なくなかったと思う。

 私の心は千々に乱れていた。大城さんを支持したい気持ちと、我喜屋さんのほうが勝てるのかなという思い。もちろん選挙には、喉から手が出るほど勝ちたい。大城さんは基地反対を貫いてくれると思うけど、勝てないと言われると、そんな気もする。我喜屋さんのほうが勝つ見込みは大きいと言われるが、ほんとうに最後まで基地に反対してくれるのか。勝ったあと、もし裏切られたら、ダメージは負けるより大きいだろう。

 我喜屋さん支持のある人が、これまでの選挙からみて革新の基礎票がいくら、それに我喜屋さんを支持する保守系市議の票を足せばいくら、と計算し、だから勝てると言うのを聞いて、その単純さにあきれ、人間を数字でしか見ない感覚にも違和感を持った。大城さんはよくて2000票しか取れない、と侮っていたが、彼や彼を支持する市民をそんなに甘く見るとしっぺ返しを受けるよ、と思った。少なくとも3000、多ければ5000票は行くだろうと私が言うと、大城さんがそんなに取ったら共倒れになるから、やはり降りてもらわないと、という話になる。前回、お願いして降りてもらった大城さんに、どのツラ下げて「降りて」と言えるの? そんなこと、私にはとてもできない…。

 悩みつつ、あっちに行ったりこっちに来たりする私は、おそらく、どちらからも疑いの目で見られただろう。これまでの選挙もたいへんだったけど、今回の比ではなかった。誰を支持しても、しなくても非難される。泥沼をはいずり回っているようなこの状況がとにかく早く終わって欲しいと、そればかりを願っていた。票はやはり大城さんに入れよう。だけど、選挙運動は絶対にやらない。私は、家に鍵をかけ、選挙が終わるまで布団をかぶって寝ていたい気分だった。
「勝って基地問題を終わりにしたい」
 とはいえ、自分たちの地域を直撃する基地問題を大きく左右する選挙に狸寝入りするわけにもいかなかった。10区の会の内外から、会として選挙に対する姿勢を示すべきだという声があがっていた。10区の会でまた話し合った。私は、「10区の会は基地反対の運動団体なのだから、会として選挙に関わるのではなく、各人がそれぞれ、個人として自分の支持したい人を応援すればいいのではないか」と言った。これまで中心的に活動してきた10区の会メンバーの中には我喜屋さん支持者もいれば大城さん支持者もいたが、その時点では大城さん支持のほうが多かったと思う。

 私の意見に対して、前回市長選では会として宮城候補を支持したではないか、という反論があった。「あのときは統一候補だったからできたが、今回の分裂状態ではできないよ」「やはり、告示ぎりぎりまで統一への努力を呼びかけよう」……

 私は、我喜屋さんについて、「反対派」(組織の幹部は別にして)がほとんど何も知らないことが気になっていた。いくらか知っている私でさえ,前述の程度だ。大城さんは反対運動を共有してきた仲間だから考え方もわかっているし、その点では信頼している。しかし、市長として誰がふさわしいかを判断するには、我喜屋さん側の材料が足りない。票数計算で、我喜屋さんのほうが勝てるというのは、運動に関わってきた人たちには説得力を持たないと思った。反対派が分裂すれば、どうせ勝ち目は薄い。それなら、疑わしい我喜屋さんより、揺るぎない反対派である大城さんで筋を通す、という選択をする人が多いだろう。実際、私もそこに傾いていたのだ。
 
 しかし、やはり勝ちたい。勝って基地問題を終わりにしたいという強い思いが、また湧いてくる。我喜屋さんが信頼に値する人で、勝てる見込みがあるなら、その選択もある。我喜屋さんを推した6者協が、彼をテントに連れてきて、みんなと膝を交えて話し合う機会を持つべきだと、私はずっと思っていた。彼の話をじっくり聞いて、それぞれが判断すればいい。機会を捉えて口にしてもいたが、その気配はなかった。あとで聞いたら、我喜屋さんからテントを訪ねたいという打診があったが、そのときテントにいた人たちが「来る必要はない」と断ったとのこと。我喜屋さんにとって、かつて「敵」同然だった人たちのところに行こうと決断するのは勇気のいることだったろうし、にべもなく断られたらめげるだろう。テント村でも断らないで(初めから否定するのでなく)、話ぐらい聞けばよかったのに、と思うが、それは6者協にとっても想定内のことではなかったのか。我喜屋さんを推した責任としても、1回断られたくらいであきらめるべきではなかった。断られても断られてもなお話し合いを求める姿勢が、我喜屋さんと、その支持者に対する不信感を払拭したかも知れないのに、と残念でならない。
地域住民の判断に目が覚める
 迷いと苦悩のまっただ中で年が明けた。選挙はもう秒読みの段階に入っていた。

 年明け早々にたまたま参加した新年会で、ほんの短い時間だったが我喜屋さん本人の話を聞く機会があった。彼は、99年末に7つの条件を付けて基地を容認した者の責任として、その条件を実現させるべく行った努力や行動を日本政府がことごとく踏みにじり、約束を守らず、基地建設の話だけがどんどん進んでいったことが自分を反対へ転じさせたと語った。よくわかる話だった。また、基地がらみのお金でゆがみ、腐敗し、崩壊寸前の名護市の財政の危機について語り、基地反対と財政再建を2本の柱として選挙に臨みたいと言った。決して雄弁ではなく、訥々とした語りだったが、それがかえって好感を与えた。

 同じ頃、地域の親しい友人と会ったら、折り入って話があると言われた。「選挙のことだけど、今度負けたらもう絶望よ。あなたは大城さんの話をしていたけど、彼では勝てない。お願いだから、今回は我喜屋さんを応援して」と、泣いてすがらんばかりに言う彼女に驚いた。この地に生まれ育ち、基地反対ではあるが、普段は直接運動に参加することの少ない人が、こんなに切羽詰まった思いを抱いていたのだと胸を衝かれた。この話を10区の会のTさんにしたら、「私も、朝市のおばぁたちに大城さん支持をお願いしようと思って行ったら、逆に我喜屋さんを支持するよう説得されてしまったよ」と言う。

 10区の1つである瀬嵩集落の国道沿いで毎週末、行われている朝市は、産業のない過疎地を狙って押しつけられてきた基地に対抗し、基地に頼らない地域の自立をめざして、もう6年間もおばぁたちが続けているものだ。10区の誇りである朝市のおばぁたちの判断は侮れない。彼女たちは「大城さんのがんばりには感謝しているし、大好きだけど、選挙は勝たなければ意味がないよ。勝たないと、基地が来てしまうんだよ」と訴えたという。

 私ははっと目が覚める思いがした。ここしばらく辺野古での阻止行動に没頭するあまり、自分の地域である二見以北10区の人々の思いや生活実感から遊離していたことに気づいたのだ。もちろん、辺野古の座り込みや海上行動は、基地を止めるためには是非とも必要だったし、政府という巨大な権力に軍民共用空港を実質的に断念させた意義は大きい。それに参加できたことを私自身誇りにも思っているが、しかし、あの非日常空間に長くいたために、反対運動の世界だけしか見えなくなっていたのではないか。反対運動は必要かつ重要だが、私自身がその中で視野狭窄に陥っていなかったかと自省させられた。

 その後、地域の人々と話すたびに、朝市のおばぁたちの判断が、反対住民の多くに共通していることを感じた。とにかく基地を止めたいし、これ以上苦しめられたくない。そのためには選挙に勝たなければならない。誰もが勝つための一本化を望んでいたが、それがほぼ不可能と思われる今となっては、勝てる見込みのあるほうを選ぶしかない。きわめてクールな判断だった。運動の筋を通すとか、個人的な感情で揺れ動いている自分がなんだか恥ずかしく思えた。

 大城さんは街頭演説を精力的に始めていた。私が家にいたとき、たまたま聞こえてきたその内容は、我喜屋さんを支持した人たちを名指しで批判するもので、あまり感じがよくなかった。地域の人たちも「裏切らない、とか強調されると、まるで我喜屋さんが裏切ると言っているようで、反発を感じる」「敵をまちがっているんじゃないか」と言っていた。もっと、自分の主張をきちんと話せばいいのにと思った。また、大城さんの支持者が我喜屋さん支持者を何かにつけて糾弾するのにもうんざりしてきた。この頃から、私の気持ちは次第に大城さん支持から離れていったように思う。
住民意思を反映した10区の会の決断
 いよいよ分裂選挙が不可避の様相を呈してきたが、会として何らかの姿勢を示すのかどうかについては、まだ結論が出なかった。選挙の告示が目前に迫った1月10日、10区の会の会合を持った。「自分は一本化の望みをまだ捨てていない」とHさんが言った。「最後の最後まで努力しよう」

 その最後の努力として、大城さんと我喜屋さんの両者にお願いして10区に来ていただき、地域住民との話し合いの場を作ろう。その場で、一本化を望む地域の切実な声や率直な疑問も、お2人に聞いてもらい、答えていただこう。結果的に一本化ができなかったとしても、両者の話を同時に聞くことは、地域住民がどちらを支持するかを判断するのに役立つだろう。地域住民に判断材料を示す場を持つことが、10区の会としての仕事ではないか。……そんなことを話し合った。

 両陣営の集会の日程などを考慮すると、15日の告示前の可能な日は12日しかなかった。夜も更けていたが、会合の場から両者にお願いの電話を入れた。我喜屋さんのほうは、日程は詰まっているが前向きに検討するという返事だった。一方、電話口に出た大城さんは「話を聞きたいならそっちが来るべきだ」と言うので、趣旨を話したが、「自分1人の懇談会ならいいが、我喜屋さんとは同席できない」と断られてしまった。その時点まで大城さんを支持したいと言っていたメンバーの顔色が変わるのがわかった。一本化の願いは最終的に絶たれてしまったことを誰もが感じていた。

 まもなく我喜屋さん側から承諾の返事が来た。1人では、私たちが当初考えた目的は果たせない。どうしよう。やめるという方法もあったが、私たちはやることにした。これは候補者がやる演説会や懇談会とは違う。私たち地域住民が両候補予定者に率直な疑問や意見をぶつけ、それに答えてもらおうという趣旨だった。大城さんに来てもらえなくても、我喜屋さん本人に、また我喜屋さんを推した6者協に対して聞きたいこと、言いたいことがたくさんあった。

 決めた翌々日の開催というあわただしさで行った「我喜屋さんと語る久志住民のつどい」には、あいにくの大雨にもかかわらず40人ほどの地域住民が参加した。基地反対の住民がこれだけ集まったのは久しぶりだ。10区の会の当初の懐かしい顔ぶれや、かつては容認派だった人たちもいる。Tさんはあとで、「うれしくて涙が出た」と言っていた。

 私たちは前もって、6者協の候補者選定をリードし我喜屋選対の本部長でもある玉城義和さんに、候補者選定をめぐる市民の不信や疑問に答えてほしい、我喜屋さん本人には、なぜ容認から反対に変わったのか、ほんとうに反対を貫けるのかという問いに答えてほしいとお願いしていた。お2人はそれを受けてくれた。玉城さんの答が充分でないという批判もあった(選挙前には公にしにくいこともあるだろう。それは選挙後でもいいから、きちんとやってほしいと私は思った)が、我喜屋さんの話はおおむね好意的に受け止められていたように思う。住民側からは、日米が合意した「沿岸案」に対する並々ならぬ危機感と、なんとしても選挙に勝たねばという切羽詰まった思いが訴えられた。

 「つどい」終了後、10区の会の主メンバーが残って話し合った。この日の参加者の総意が「我喜屋さん支持」であることは明白だった。それを踏まえて、10区の会として選挙にどんな姿勢で臨むのか、決めなければならなかった。

 「10区の会として我喜屋さん支持を打ち出すべきだ」という提案があった。私はこの期に及んでもまだ、個人として選挙運動をやるのはいいが、会として打ち出すことには消極的だった。我喜屋さん支持を打ち出したときの反発は容易に想像できた。辺野古のテント村や現場のたたかいに参加した人の多くが大城さんを支持し、かつて容認派であった我喜屋さんに不信感を表明していたからだ。私がいちばん心配したのは、東海岸に基地問題が起こってからこの9年間、ともに手を携え、励まし合って反対運動をやってきた「辺野古・命を守る会」とのあいだに亀裂ができないかということだった。大城さんを心から信頼し、熱烈に支持している「命を守る会」のおじぃ、おばぁ、一人ひとりの顔が浮かぶ。彼らが、たたかいの苦楽を共にしてきた大城さんを支持するのは人情として当然だし、10区の私たちにもそれを期待しているだろう…。おじぃ、おばぁたちの気持ちを裏切り、苦しめるなんて、できやしない…。

 会として我喜屋さん支持を打ち出すかどうか、侃々諤々の議論が続いた。地域住民の意思を反映するのが、地域住民団体としての10区の会の務めであることはわかっていた。なんとしても選挙に勝ちたいというみんなの思いがひしひしと迫ってくるようだった。「分裂選挙になったとしても、1%でも可能性のある方にかけたい…」。一方で、「これまでの大城さんとの関係を断ち切ることになるのか…」と、呻きに似た声が漏れる。悩み、苦しみ、その場にいた全員が泣いていた。

 日付もとうに変わった頃、私たちはついに決断した。沿岸案に直撃される地域住民の声を全市民に知らせ、それを選挙に反映させるためには、会として選挙に積極的に関わる必要がある。そのためには姿勢をはっきりさせなければならない。辺野古のおじぃ、おばぁたちも、事情を丁寧に話せばきっとわかってくれるはずだ…。こうして私たちは、住民意思の反映として我喜屋さんを支持することにしたのだった。
主体的に選挙に関わる
 その日から22日の投票日まで、短期間だったが、私たちはフル回転で選挙運動にかけずり回った。選挙運動を会として行うためには、休会中だった会を再開しなければならなかったので、まずは、会の再開および「会として我喜屋さんを支持する」ことを地域に知らせるビラを作り、10区の全戸に配布した。

 私は自分の住んでいる三原集落を中心に配布したが、120軒ほどを回るのに、なんと5時間以上もかかった。山間の川沿いに人家が離れて点在する地域事情もあるが、1軒1軒まわっているとあちこちで引き留められ、「なぜ、こう(分裂)なってしまったの?」と説明を求められたり、「大城さんはどうして降りてくれないの?」と聞かれたり、はかどらないこと夥しいのだった。その中でも、我喜屋さん支持が地域の大多数の意思だということを再確認した。

 うれしかったのは、私の自宅(昨年、土地を借りてプレハブのマイホームを建てた)の地主が我喜屋さん支持だったことだ。この人は小さな土建会社を経営していた(最近、どうやら倒産したらしい)ので、島袋さん支持かなぁと思っていたのだが、私が我喜屋さんで動き出してから互いに「味方」だということがわかって、親しくなった。彼と同様、この地域の多くの小・零細業者は我喜屋さん支持が多かった。

 私たちは決断した翌日、何をさておいてもまずは命を守る会にそれを伝えようと、辺野古の事務所を訪ねた。まさに「聞くも涙、語るも涙」のひとときだったが、きちんと受け止めてもらえたと思う。しかし、私たちの決断に対する風当たりは予想通り、否、予想以上に大きかった。つい昨日までいっしょに現場でたたかってきた仲間から「裏切り者」呼ばわりされ、まるで「敵」であるかのような態度をとられるのはつらかった。我喜屋さんを支持する組織の1つに下地幹郎衆議院議員が率いる政策集団「そうぞう」があり、下地氏が、普天間移設の代替案としてキャンプ・シュワブ内に小規模のヘリパッド建設を提案したことから、「あなたも同じ考えか」と詰られたりした。下地=我喜屋=我喜屋を支持している私、という等式(思想信条が同じ)はどうにも理解できなかったけれど。

 つらかったこと、苦しかったこと、泣きたかったこと(実際に泣きもした)は数え切れないくらいあるが、結果として私は、会として態度をはっきりさせ、選挙に主体的に関わったことはよかったと思っている。1キロ四方に声が届くという街宣車に乗り、応援の国会議員らとともに名護市内をくまなく回って演説し、10区の声や危機感を市民に直接訴えることができたし、何よりも、これまで希薄になっていた地域住民との結びつきを再確認し、取り戻すことができたからだ。普段、10区の会とは少し距離を置いている地域のある人から「10区の会がはっきり表明してくれたので、(我喜屋さん支持の)運動がやりやすくなった」と感謝されたときは、とてもうれしかった。

 我喜屋陣営を「保革相乗り」と呼ぶ表現があるが、そこに、利害打算だけの野合だというニュアンスが込められているとすれば、それは違うと思う。私は今回、これまで住む世界が違うと思っていた、いわゆる「保守」の人たちと、ほんの短期間ではあったが協働する機会を得た。他の点では思想信条の違う人たちが、共通できる課題で協働するのは、とてもいいことだと感じた。だって、それが人間の世界だもの。「保守」も「革新」も(どっちも括弧に入れたい気がするが)、きっと互いに学ぶところがあり、視野が広がって豊かになったはずだ。

 私は我喜屋さんを見ていて、とても失礼な言い方で申し訳ないのだけれど、彼がわずかな期間にどんどん変わっていく(成長していく)のに感動を覚えた。人が変わっていくって素敵なことだな、と思った。15日の告示のあと、出発式で彼はこう言った。「市民が基地ノーの意思を示した名護市民投票の時点まで市政を引き戻さなくてはならない」「市長というポストがもし権力であるのなら、その権力を市民の側に取り戻そう!」と。私はそれを聞いて、この人を支持したのは間違いではなかったと思った。

 我喜屋さんは暴力団とつながっているとか、出身地の今帰仁では評判が悪いとか、さまざまな噂が流された。大城さんは自民党からカネが出ていると、まことしやかに言う人もいた。共産党が自分たちのビラで、我喜屋さん支持を訴えつつ、大城さんと島袋さんの悪口を書いているのはいただけなかった(「読む人がイヤになって逆効果だからやめて」と言ったらすぐやめてくれたので、うれしかった)。賛成派の女性たちが、基地に反対しているおばぁたちのところを訪ねて大城さんを誉め、「可哀相だから、大城さんに入れなさい」と説得して回ったり、公明党の人が一人暮らしのお年寄りに「島袋さんが勝てば、お宅の家のここを修理してくれるよ」と「約束」して回ったり、誹謗中傷や騙し合いは選挙に付きものだ。やめて欲しいけれど、それが無理なら、自分の感性を信じるしかない。
流した涙の分だけ強くなった?
 選挙が終わり、私たちは厳しい現実と向き合っている。日米両政府は、もともとやる気のなかった「地元の理解を求める」パフォーマンスさえかなぐり捨てて、いよいよ有無を言わさず強行する姿勢を明らかにした。3万5千人が集まった3月5日の沿岸案反対県民大会を、あの程度なら大したことはない(ねじ伏せられる)と読んだのか、それとも、あれだけ集まったのだからどうせ説得は無理だ(だから強行する)と読んだのか。いずれにせよ沖縄を平気で踏みつけにする日本政府に対して、もみ手をしつつ「受け容れられる修正案の範囲」などを示す名護市の姿は、あまりにも情けなく、恥ずかしい。

 10区の会は選挙後の2月3日、再開総会を行って正式に再スタートした。それが、今回選挙の最大の成果だ。もっとも、再開したからといって、一挙に参加者が増えたわけではない。私たちは根気強く参加者を増やし、政府の沿岸案強要に負けない地域の基盤を作っていく地道な活動を始めている。大浦湾を漁場とする汀間のウミンチュたち(名護市漁協汀間支部)が立ち上がり、10区の会との交流も生まれてきた。

 選挙のしこりはまだ残っている。命を守る会のおじぃ、おばぁたちとのぎくしゃくした関係も、完全に修復するにはもう少し時間がかかりそうだ。つらかったし、今も切なくつらいけれど、苦悩した日々と流した涙の分だけ、少し強くなったような気がしている。
10区の会は元気です!
(2006年3月)
<付記>
冒頭でも断ったが、この記録は私個人のきわめて私的な回顧である。私自身が経験した範囲のできごと、感じたことを率直に、記憶をたどって書き記したものであり、偏ったところや記憶違いもあるかもしれない。私自身が予断と偏見から自由であるとは思えないので、自分の判断や、ものの見方を正しいと言うつもりもない。この記録の中の大小の間違いに気づかれた方は、ご指摘いただければ幸いである。
みなさん! 10区の会がめげないよう、 応援をおねがいします。
郵便振替 01730-9-9673 ヘリ基地いらない二見以北10区の会