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2009年  8月23日 とにかく、まずは、声を出さなくちゃ!
8月16日
新報さんの記事はhttp://ryukyushimpo.jp/news/storyid-148530-storytopic-1.htmlで。
以下転載。2004年の米軍ヘリ沖国大墜落事故から13日で5年になり、宜野湾市主催の「普天間飛行場問題シンポジウム」が15日午後、同市の沖縄国際大学で開かれた。市民ら約200人(主催者発表)が集まり、当時事故にかかわった行政、地域、大学、マスコミの関係者5人が登壇。事故を振り返りながら、今なお危険性が取り除かれない現状を指摘した。「普天間問題」解消へ、事故のつめ跡の継承や基地の違法性を浮き彫りにする作業を地道に行い、内外に声を上げ続ける重要性を提言した。パネリストは大学がある同市宜野湾区の仲村清自治会長、沖国大の桃原一彦准教授、与那嶺路代琉球新報記者、磯野直沖縄タイムス記者、伊波洋一宜野湾市長の5人。コーディネーターは照屋寛之沖国大教授が務めた。仲村会長は住宅地の飛行状況について、相変わらず早朝から深夜まで旋回、編隊飛行が繰り返されているとし「危険性は除去されておらず、軍用機が飛ぶ限り、墜落の不安や恐怖が続く」と怒りをあらわに。普天間飛行場の早期閉鎖と軍用機の住宅地上空の飛行中止を強く訴えた。桃原准教授は事故が風化してしまう懸念について、学生主体で実施した2007年の「NO FLY ZONE(飛行禁止区域)コンサート」を挙げ、「学生たちによる記憶の忘却、無関心への戦いだ」と高く評価。一方で「毎年問題意識を持っている学生が出てくるか、僕たち教員にかかっている」と語り、記憶の継承へ自らの使命を再確認した。磯野記者は伊波市長の訪米要請に同行した経験に触れ、「米国では、沖縄の現状はほとんど届いていない」「今は声が届く世論になっておらず、米国にとってワンオブゼムになってないか」と指摘した。与那嶺記者は教科書検定問題で政府を動かした2007年9月の県民大会を例に挙げ、「こうしたことは普天間にも言える。わたしたちは声の力を過小評価してはいけない」と話し、政治家や官僚を変え、国政に反映させるために、声を上げ問題を訴え続ける必要性を強調した。伊波市長はこれまで独自調査などで普天間飛行場の違法性を指摘してきた経緯を説明し、「普天間は、論理的に詰めていけば、逸脱している問題ということを浮き彫りにすることはできる」と述べ、引き続き訴え続けることで、移設問題や同飛行場の違法状態解決へのチャンスがあるとの認識を示した。
誰もが危険だと思っている。

辺野古への移設も「なんでよ~」と思っている。

ただ声をあげなければ思いは伝わらない。

「これでもか」

というぐらい叫ばないと伝わらない。

人間、だれしも疲れることはやりたくないが、

そう思っても私たちウチナンチュは

大きな声をあげていかなければいけないのだと思う。
8月17日
新報さんの記事はhttp://ryukyushimpo.jp/news/storyid-148580-storytopic-1.htmlで。
以下抜粋。2004年の米軍ヘリ沖国大墜落事故で、同大本館の壁の破片が自宅に飛び込む被害を受けた中村桂さん(36)が13日、破片を同大に寄贈した。破片は同大図書館で展示されている。破片は事故発生時に中村さんを取材した琉球新報社の記者が預かっていた。破片が残っていることを知った同大の照屋寛之教授が寄贈を要望し、13日に記者から中村さんの元に戻り、同大に寄贈された。
大きな石・・・・!!

小さなお子様がいた中村さんにとって
こんなものが部屋に飛び込んでいたなんて
ものすごい恐怖だったと思う。

命に別状がなくて、とてもとてもさいわいでした。

でも一歩間違えれば・・・
と思うととても恐い!!
8月19日
新報さんの記事はhttp://ryukyushimpo.jp/news/storyid-148682-storytopic-1.htmlで。
以下抜粋。米軍普天間飛行場代替施設建設に伴う環境影響評価(アセスメント)手続きに不備があるとして、県内外の344人が19日午後、国に対し方法書や準備書作成をやり直すよう求める行政訴訟を那覇地裁に起こす。アセス手続きそのものの不備を訴える訴訟は全国で初めて。
建設を止めることであれば、たとえそれが1%の可能性でもがんばるのみ。
8月22日
新報さんの記事はhttp://ryukyushimpo.jp/news/storyid-148800-storytopic-1.htmlで。
以下抜粋。学童疎開の船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、児童を含め多くの犠牲者を出した事件から22日で65年を迎える。同日、生存者ら6人は沈没地点の鹿児島県トカラ列島悪石島沖で海上慰霊祭、開館5周年を迎える対馬丸記念館(高良政勝館長)は那覇市若狭の小桜の塔で慰霊祭をそれぞれ行い、亡くなった児童らに鎮魂の祈りをささげる。生存者らが参加する海上慰霊祭開催は1998年11月に実施された政府主催の慰霊祭以来約11年ぶり。対馬丸の犠牲者数は分かっているだけで781人の児童を含めた1425人。1944年8月21日に疎開先に向かうため那覇港を出発し、22日午後10時12分ごろ、悪石島沖で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、約10分で沈没した。漁船や哨戒艇に救助されたり、奄美大島に流れ着いて助かった人もいるが、多くの児童が犠牲になった。高良館長は「65年は一つの大きな節目だ。今後さらに生存者や家族が少なくなっていくだろう。記念館を活用するなどして多くの県民に対馬丸の悲劇がどんなものだったか伝え続けていきたい」と語った。
今日の記事を読んで、恥ずかしながら、はじめて護衛艦が2隻もいたのに、沈みゆく対馬丸を置き去りにして救助しなかったことを知った。

今の沖縄でもし戦争が起きたときも同じ状況になるだろうと感じた。

「米軍は沖縄を守るためにいるのではない」ということをすべての県民、国民がちゃんと知っていなければいけない。

自衛隊だってそうだよ!決して私たちを守ったりしない!!
7月も毎週土曜日 午後6:30-7:00  キャンプ・シュワブ 第1ゲート前  サイレントキャンドル やってます
8月23日 渡具知智佳子 記
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