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2016年  5月 1日 ゲート前で辺野古総合大学開催
  浦島悦子
 ゲート前では、工事中止期間を利用して、次のたたかいの力を蓄えようと、4月5日〜月末まで「辺野古総合大学」(全17回)が行われています。14日には私が、ヘリ基地いらない二見以北十区の会として、「地元住民の20年間の基地反対運動」のタイトルでお話ししました。

 その時に配布した資料(150部作ったけど、少し足りませんでした)を掲載します。
「二見以北10区(大浦湾沿岸地域)」 ってどんなところ?
(*二見以北10区=大浦湾沿岸に点在する二見・大川・大浦・瀬嵩・汀間・三原・安部・嘉陽・底仁屋・天仁屋の各区)
 沖縄島北部・名護市の西海岸に面した市街地から、島を横断する国道329号線に沿って分水嶺を越えると、太平洋に面した東海岸が目の前に開けます。沖合のサンゴ礁に砕ける真っ白い波の花。その内側にエメラルドグリーンを湛えた波静かなイノー(内海)と常緑の山々に前後から抱かれ、同じ市域とは思えないほど静かなたたずまいを見せるこの地域は、1970年に1町4村が合併して名護市が誕生するまで、久志村と呼ばれました(現在は久志地域と呼んでいます)。深い山々から湧き出る水が小さな川となって海に注ぐところ、河口にできたわずかな平地にいつ頃から人が住み始めたのかはわかっていません。おそらくは海を渡ってこの地に初めて上陸し、ここを終の棲家と思い定めた人々の胸の内を想像するのみです。山懐に抱かれるように海沿いに点在する小さな集落は、そうして定住した人々が、耕地を開き、山に分け入り海に出て、ささやかな暮らしを紡ぎ、祖先神やムラの神々を戴いて、地縁・血縁を広げつつ、形作ってきたものです。

 90〜100年ほど前まで、深い山々に阻まれて陸路が発達せず「陸の孤島」であったこの地域の人々にとって、背後の広大な山々は制約であると同時に、クサティ(腰当て=守ってくれるもの)であり、また薪炭をはじめとする山の幸を与えてくれる大切な資源でもありました。ここから薪炭などの林産物を島の中南部へ運び出し、食糧や日用必需品などを運んできて交換するヤンバル船の時代は、戦後しばらくまで続き、水深のある大浦湾はヤンバル船の寄港地として賑わったのです。帆をいっぱいに張り、風を孕んだヤンバル船が、深い藍色を湛えた大浦湾を滑るように走る様を想像しただけでわくわくしてきます。また、目の前に広がるイノーは、耕地の少ないこの地の人々の胃袋を賄う海の畑、天然の冷蔵庫として恵みを与え続けてきました。畑に出ていても、潮時には必ず海に出て、歩けるようになったイノーで海の幸を得るのが習わしだったといいます。金銭的には貧しくても、豊かな自然、海と山の恵みに生かされてきたことを人々はよく知っているのです。
 
 71年前の沖縄戦で、上陸してきた米軍は、やんばる地域を「収容所地域」と位置付けました。その目的は、日本軍の敗残兵を掃討し、日本本土攻撃に向けた基地を造るために、足手まといになる住民を収容所に囲い込むことでした。久志村役場のあった瀬嵩を中心とする大浦湾沿いの一帯(二見以北)には約3万人(元々の地域人口の20倍以上)が集められ、瀬嵩収容所と呼ばれました。戦火を逃れ山中を転々と避難して疲弊しきった人々や、中南部の激戦地を辛うじて生き延びた人々が、焼け残った民家や米軍の野戦テントにぎゅうぎゅう詰めにされ、劣悪な衛生状態や飢えと栄養失調、蚊が媒介する伝染病・マラリアによって次々と死んでいきました。この地に伝わる新民謡「二見情話」は、二見で収容生活を送っていた人々が待ちに待った故郷に帰る際、お世話になった地元の人々への感謝を込めて残していった歌です。その中には、この地の海山(自然環境)の素晴らしさ、人々の心の美しさと、二度と戦争はあってはならないというメッセージが込められています。瀬嵩収容所と並行して辺野古崎に設置された民間人収容所は「大浦崎収容所」と呼ばれ、本部半島の住民(今帰仁・本部と、そこに疎開していた伊江村民)2万5千人以上が地域ごと強制移住させられました。その大浦崎収容所跡に1950年代半ば、米海兵隊キャンプ・シュワブが建設され、田畑を基地に接収された辺野古の人々は基地内労働や米兵相手の商売に生活の糧を求めざるをえませんでした。この頃から、久志地域13区(集落)のうち基地を挟んで南側の久辺3区(久志・豊原・辺野古)と、北側の二見以北に岐路が訪れます。基地の被害も受けるけれど、基地経済を目当てに流入する人々で人口の増えた辺野古周辺に比べ、二見以北はいっそう過疎化が進んでいます。名護市の現人口は約6万2千人ですが、市域面積の3分の1を占める久志地域の人口はその7%の約4500人。うち二見以北は、10の集落を合わせても1500人足らず。地域が広いため小学校は4つありましたが、生徒数の減少により1校に統合され、3校が廃校になりました。過疎につけ込んで、名護市の一般廃棄物最終処分場が二見以北に押しつけられたのに、今また基地まで押しつけるのかと人々は怒っています。過疎化・高齢化に悩み、何とかして若者たちを引き留める仕事が欲しいという地域の悲願に付け入る汚いやり方ですが、新基地建設問題をめぐる20年近い歳月の中で、基地がらみの莫大な「カネ」が地域を振興させるどころか疲弊させるだけであることに気付いた地域住民は、二見以北出身の稲嶺進現市長を当選させる大きな力を発揮したのです。
 
 こんな地域に生きる私たちは、ここをこよなく愛しています。人殺しの基地ではなく、豊かな自然を活かし、海と山の恵みに依拠して、地域の未来を造っていきたいと願っています。10の集落は、小さくてもそれぞれの顔と味を持ち、そこでは個性豊かな人たちが、悪戦苦闘しながらも、それぞれの夢に向かって努力を重ねています。
二見以北地区における新基地建設反対運動の経過
1997年 10月12日 「ヘリ基地いらない二見以北十区の会」結成(久志支所ホールにて)
12月21日 「海上ヘリポート建設の是非を問う名護市民投票」で「基地NO」の市民意思が示される
12月24日 比嘉鉄也名護市長が市民の意思に反して基地受け入れを表明
1998年 1月 出直し市長選挙で比嘉鉄也氏後継の岸本建男氏が当選
5月 ジャンヌ会(十区の会女性部)を中心に「基地いらない女たちの東京大行動」。沖縄から約100人の女性たちが参加、東京の女性たちと共同行動
1999年 11月 県知事選で15年期限付き軍民共用空港を公約にした稲嶺恵一氏が当選
12月 稲嶺知事の要請を受け、岸本市長が辺野古沿岸域への基地(リーフ上埋め立て案)受け入れを表明(7条件を付けた「苦渋の選択」)
この間、十区の会では、住民署名活動、名護市庁舎包囲、名護〜那覇までの行進、岸本市長への「平和のプレゼント」行動、「平和の樹」行動、ハワイ訪問(ハワイ・オキナワ・ピースネットワークの招きを受けて、基地問題をアピール)、各区区長への働きかけなど、新基地建設反対を訴えるさまざまな活動を行う
2004年 4月19日 新基地(リーフ上埋め立て)建設のためのボーリング調査阻止座り込み始まる(辺野古海岸)
8月13日 沖縄国際大学構内に普天間基地所属へりが墜落
9月 ボーリング調査のための海上作業強行。海上阻止行動始まる
11月 十区の会、キャンプシュワブゲート前でのサイレントキャンドル行動開始(毎週土曜午後6時半〜7時。ピースキャンドルと改称し、今日まで継続中)
2005年 9月 ボーリング櫓撤去される
10月 日米政府がリーフ上埋め立てに代わる辺野古沿岸案発表
2006年 1月 名護市長選挙で島袋吉和氏が当選(沿岸案反対が公約)
4月 島袋市長が公約を翻してV字形沿岸案で政府と合意
十区の会、合意撤回を求めて名護市と交渉
辺野古区が補償金要求方針。二見以北でも補償金や振興策要求の動きあり
7〜8年間に10区中6区の地区会館(公民館)新築、診療所・消防署・中学校体育館などが防衛庁(当時)予算(SACO関係補助事業)9割で建設される
2006年 9月 名護市議選に十区の会の東恩納琢磨さん初挑戦。1票差に泣く(その後の異議申し立てで「同数」となり、08年6月、欠員により市議就任
2007年 4月 防衛庁、アセス事前調査に強行着手
2010年 1月 二見以北(三原区)出身の稲嶺進氏が、島袋前市長を制して市長に初当選
3月 二見以北地域交流拠点施設・わんさか大浦パーク施設完成
2014年 1月 稲嶺市長が、日本政府の全面的バックアップを受けた末松文信候補(元名護市副市長)に大差をつけて再選
4月 (市長選時の稲嶺選対二見以北支部を発展させ)「辺野古・大浦湾に新基地つくらせない二見以北住民の会」立ち上げ
地域住民の3分の2に当たる約1000人の基地反対署名(沖縄防衛局および沖縄県に提出)
7月 辺野古・大浦湾でのボーリング調査に向けた作業強行開始
8月 住民の会主催・二見以北地域住民緊急集会(久志支所ホールにて) 
2015年 1月 住民の会、沖縄防衛局へ埋め立て作業中断要請行動
その後、住民の会は、瀬嵩の浜での緊急集会、国連の軍事・人権・環境の各部局への訴え(手紙)、国連環境計画(UNEP)アジア太平洋事務所からの返事を元に環境省・外務省・防衛省への要請行動(15年7月)、ゲート前行動への参加、カヌーチームとの交流、全国・海外から訪れる方々との交流などを行っている
三原区、汀間区、底仁屋区でそれぞれ、改めて基地反対が決議される
私たちの原点
*大浦湾は、地域住民の母なる海。地域住民は古来から海に親しみ、海の糧を得て暮らしを営んできた。自然は人々の日常生活と深く結びついており、自然と人とが作る景観が心身を育ててきた。この地域には、そのような海や山の恵みに感謝し、人々との密接な関係を示す海神祭、ハーリー、ハマジューコー(浜焼香)、浜下り、アブシバレー(虫払い、虫流し)などの伝統行事や、海の彼方に理想郷があるというニライカナイ信仰が今も残り、引き継がれている。この豊かな海を破壊することは、地域住民から暮らしそのものを奪うことであり、心身の拠って立つ基盤を失うことである。

*70年前の沖縄戦時、大浦湾にも米軍艦がひしめいた(ボーリング調査強行のための作業船・監視船・海上保安庁の巡視船やゴムボートがひしめくさまは、地域の沖縄戦体験者を「70年前とそっくり」と震撼させた)。二見以北は収容所地域となり、多くの命が失われた。二度と戦争につながるものを許さず、子や孫に平和な未来を残すことが、私たちの責務である。
みなさん! 10区の会がめげないよう、 応援をおねがいします。
郵便振替 01730-9-9673 ヘリ基地いらない二見以北10区の会