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2010年  6月27日 6/20緊急シンポ「名護・徳之島から日米共同声明を問う」ご報告
  写真・文 浦島悦子

緊急シンポ「名護・徳之島から日米共同声明を問う」
沖縄は海兵隊が分捕った島 駐屯は思いやり予算目当て
 緊急シンポジウム「名護・徳之島から5.28日米共同声明を問う」(主催:沖縄の「基地と行政」を考える大学人の会、共催:名護市・徳之島町・伊仙町・天城町)が6月20日(日)午後、名護市民会館中ホールで開催され、名護市内外から400人が参加しました。

 第一部の基調報告を行なった宮城篤実・嘉手納町長は「町域の83%を米軍基地に占領され、残りの土地に1万4千人の町民が暮らす嘉手納町の町長に就任して20年になる。1996年のSACO合意で嘉手納基地の長期固定化が決まったばかりか、事ある毎に嘉手納統合案が出てくることに警戒感を持っている。今年は日米安保改定50年の節目であり、非常に大事だ。日米関係をもう一度見直す必要があるのではないか」と述べました。

 普天間基地の辺野古および徳之島移設を発表した日米共同声明と、それを推進する民主党政権に対して、沖縄県内はもちろん徳之島(鹿児島県)でも怒りと抗議の声が高まっていますが、日程の都合から当初の予定(第二部で報告)を変更して第一部で報告した川内博史・民主党鹿児島県連代表が「日米共同声明に関する閣議決定には『基地負担の県外・国外への分散……に引き続き取り組む』という言葉が入っているし、菅首相の発言には辺野古や徳之島という言葉はない。日米共同声明には法的拘束力はなく、変更できるし、さまざまな可能性がある」「感情的に反対と言うだけで阻止できるなら簡単だが、そうではない」などと述べたため、会場から「ウソをつくな!」「もうだまされないぞ!」と怒号が飛びました。続く玉城デニー・沖縄県連副代表の言い訳じみた発言も批判を浴び、冒頭から政府への不信感が露呈するシンポとなりました。

 第二部の基調報告を行なった新崎盛暉・沖縄大学名誉教授は、昨年の総選挙の直前に「県外・国外」とはっきり言っていた岡田外相が就任後、米国に一喝されて態度を変えたことを指摘し、鳩山前首相の辞任劇を「一種のクーデター」と表現。「沖縄県連も鹿児島県連ももっと戦術をきちんとし、中央政府と対決すべきは対決しなければ勝ち目はない」と批判しました。

 徳之島から駆けつけた大久保明・伊仙町長は「奄美と沖縄は同胞と言いながら、これまで沖縄の基地問題には無知だった。徳之島の一部の土建業者が移設案を『千載一遇のチャンス』として動き、政府に話が行ったが、勉強すればするほどたいへんなことだとわかり、反対の気運が盛り上がった。2万6千人の島の人口のうち1万6千人が4.18決起大会に結集し、2万6千の反対署名を集めた。振興策や交付金は対立しか生まず、甘い汁は毒になる。徳之島は長寿日本一、子宝日本一の島として農業で生きていく。依存から自立への道を歩む。今日のシンポがターニングポイントとなり、徳之島と名護、沖縄が兄弟島として付き合っていくことを望んでいる」と語りました。

 また、地元の稲嶺進・名護市長は「琉球処分と同じことをやろうとしている政府を黙って見ているわけにはいかない。地元・久志区での反対決議や『稲嶺市長を支える会』の結成など、反撃が始まっている。県外・国外移設を勝ち取るためには自覚的で持続的なたたかいが必要だ。かならず新しい展開が生まれてくるだろう」と述べました。

 その後、私(浦島悦子)が、ヘリ基地いらない二見以北十区の会のこれまでの活動や辺野古案復活に対する思いを報告(報告原稿を最後に掲載します)。仲地博・沖縄大学教授が辺野古移設に関する知事権限について説明し、「知事の許認可拒否に対する国からの訴訟→代執行、特措法の制定などをさせない取り組みが必要。11月の知事選が鍵となる」と述べ、また、桜井国俊・沖縄大学教授は辺野古現行案のアセスが欠陥だらけであることを指摘、「米国でのジュゴン訴訟との連携が決め手となる。現行アセスの評価書は、米国連邦地裁の評価に耐えることはできないだろう」と述べました。

 大田昌秀・元沖縄県知事、喜納昌吉・民主党沖縄県連代表からのビデオ・メッセージ、翁長雄志・那覇市長(沖縄県市長会会長)、儀間光男・浦添市長(中部市町村会会長)、儀武剛・金武町長からの文書によるメッセージの紹介もあり、最後に、パネリストによるパネルディスカッション、フロアからの発言・提案が行なわれました。

 宮城町長は、冒頭の国会議員の発言に対する不信と怒りを露わにし、「沖縄に基地を押しつけ、不平等を強いてきた日米安保や地位協定を放置してきたのは国会議員たちだ。本土側からの美しい言葉には警戒し、当てにしないほうがいい」、また、新崎名誉教授は「移ろいやすい本土の世論とも対決していかなければならない」と述べました。

 フロアからは「日本政府を相手にしても無駄。市民も含めた訪米直訴団を」「辺野古を包囲する県民大会をやろう」「個人でもできる意思表示を続けよう」「徳之島と沖縄がいっしょになって国連や米国に要請しよう」「沖縄の全米軍基地を撤去させ、日米安保は必要ないと声を上げよう」など、多くの提案があり、予定を1時間近くオーバーして、熱気に満ちたシンポを閉じました。
以下、当日の私の報告原稿です。

 私の住む名護市の東海岸は久志地域と呼ばれ、キャンプ・シュワブを挟んで南側に3つ、北側に10の集落があります。大浦湾から東村との境まで南北20キロの間に点在する10の小さな集落を二見以北10区と呼んでいます。稲嶺市長もこの地域のご出身です。

 私たち、ヘリ基地いらない二見以北10区の会が結成されたのは、名護市民投票が行なわれた年、1997年の10月です。二見以北は10の集落を合わせても人口約1500人の過疎地で、高齢化も進んでいるんですが、10区の会の結成集会には久志支所ホールがあふれるほどの500人もの住民が集まりました。

 山が海まで迫り、平地が少ないため昔から金銭的には決して豊かとは言えませんが、わずかな田畑を補ってくれる豊かな海の幸、また山に入って薪や材木を出す山稼ぎなど、海と山の恵みに支えられ、お互いに助け合いながら暮らしてきました。

 その静かな地域に降って湧いた新たな基地建設問題に住民はいっせいに反対の声をあげました。10区の会は各区の区長さんたちを先頭に名護市街地でデモ行進をしたり、市庁舎を取り囲んだり、地域ぐるみのさまざまな行動で地元の基地反対の声を市民に届け、仕事も家庭も投げ打って名護市民投票に取り組みました。

 公職選挙法が適用されない住民投票は何でもありで、政府は権力とお金を使ったありとあらゆる圧力や妨害を行なってきましたが、名護市民はそれらをはねのけて見事に勝利し、基地反対の意思をしっかりと示しました。

 市民投票に勝てば基地問題は終わる、と思って全力でがんばって勝ち取った勝利。汗と涙の結晶とも言うべきそれが政府の圧力に負けた当時の市長の一言で覆されてしまった悔しさ、落胆は言葉に言い尽くせません。頑張った人ほどダメージは大きかったと思います。

 一方で、基地を受け入れさせるためのさまざまなアメが地域に持ち込まれてきました。二見以北は地域が広くて人口が少ないので、国政選挙などでは選挙カーも回ってこないような、行政の光の当らない地域でしたが、市民投票以降、各区の公民館や学校の施設が防衛省予算で次々に建て替えられ、消防署や診療所が新築され、10区全体で年間6千万円の地域振興補助金が支給されたり、政府やその意を受けた名護市からのさまざまな働きかけが行なわれるにつれて、区長さんたちの声も動きも鈍くなり、次第に条件付き受け入れへと変わっていきました。

 地縁血縁の濃い地域なので、地域の有力者たちの動向は住民の動きに直接影響します。10区の会の活動への住民の参加は次第に少なくなっていきました。そんな中でも私たちは地域人口の三分の二の署名を集めたり、「平和のプレゼント」と題して地域住民への説明会を求める手紙や色紙などを毎日交替で市長室に届けたり、那覇まで平和行進を行なったり、区長さんたちへの働きかけも含め、考えられるあらゆることをやってきました。

 しかし、どんなに声をあげてもそれは行政に届かず、地元の頭越しに、基地計画は二転三転しながら規模が大きくなっていきました。いくら頑張っても権力には勝てない、という諦めに加えて、基地がらみのカネによって引き裂かれていく人間関係への疲れから、ものの言えない重苦しい雰囲気が地域を支配するようになり、地域自治は蝕まれていきました。それでも私たちが、少人数でもせめて種火だけは消すまいと頑張って来れたのは、行動には表さなくても地域住民の基地反対の意思は変わらないという確信に支えられていたからです。

 基地の見返りのお金がたくさん投下されたにもかかわらず、この13年間に過疎化はますます進み、二見以北に4つあった小学校は昨年、1つに統合され、3校が廃校になりました。立派な施設は維持費がかかり、地域住民の負担を増やしただけです。地域が豊かになったという実感は誰も持てず、人間関係がギスギス、ぎくしゃくして住みにくい地域になっていきました。

 そんな閉塞感がぎりぎりの限界まで来ていた地域住民がもう我慢できない、何とか変えたいと、出口を求めて立ち上がったのが今回の市長選挙だったと思います。その意味で、地域出身の進さんが立候補したことはとても大きかった。進さんがはっきりと「基地反対」を打ち出したことによって、地域住民が、ずっと押し殺していた自分たちの本心を表に出していいんだと自信を持ったんです。市長選を通じて地域がどんどん変わっていくのに私は目を見張る思いでした。地域住民が言いたいことを言えるようになり、自信と誇りを取り戻していったんです。そして、それがまた、進さんを当選させる力にもなったと思います。私は進さんにほんとうに感謝しています。

 地域が生き返った、ようやく希望と再生への道を歩み始めた。容認派と言われる人たちも、ほんとうは基地なんか来ない方がいいと思っています。政権交代と稲嶺市長の誕生によって融和に向かっていたんです。それなのに、地域を再び引き裂き、闇の中に引きずり込もうとしている政府のやり方を、私は絶対に許すことができません。今後、彼らはありとあらゆる手段を使って切り崩しを図ってくるでしょう。それは私たちがこの13年間、ずっと見続けてきた光景です。長い間苦しめられた基地問題がやっと終わると喜んだもの束の間、ブーメランのように戻ってきた時はほんとうに落ち込みましたが、今はもう、どんなことがあっても驚かない、という心境です。

 1996年の日米合意,(SACO合意)は、県知事が容認し、市長が容認しても、地元住民、県民の反対と広範な世論の力によって14年かけても基地は造れなかったんです。今、私たちは稲嶺市長というしっかりした盾を持っています。これまで以上に基地建設は困難になっています。私たちの頭越しに日米がどんな合意をしようと、地元の合意がなければそれは実現しない。私たち市民と市長が心と力を合わせれば、基地は必ずはね返せると私は確信しています。
  
みなさん! 10区の会がめげないよう、 応援をおねがいします。
郵便振替 01730-9-9673 ヘリ基地いらない二見以北10区の会